微生物酵素(光合成細菌RAP99)が開発されるまでの物語の一部を公開いたします。
主人公は開発者の戸田順博(とだのぶひろ)。彼なくして微生物酵素の誕生はありませんでした。
1942(昭和17)年
神戸市兵庫区に戸田代吉とフジ子の間に長男として誕生。2歳上の姉・黎子との4人家族は仲良く穏やかに暮らしていたが…
1945(昭和20)年
第二次世界大戦で父が戦死。
母子家庭となってしまったが母が懸命に働き、姉弟はすくすくと育った。母の愛情に包まれて戸田は大らかで素直な性格の少年へと成長する。
1955(昭和30)年
ある日たまたまラジオで耳にした明るく軽快な音楽に戸田の心は鷲掴みにされてしまった。
母や姉が心配するほどロカビリー音楽にのめり込み…
某プロダクションのオーディションで7位に入賞し、プロのミュージシャンへ
スターバンドのリズムギター兼サブボーカルに大抜擢された戸田は彼らとともに全国を講演して回った。
1966(昭和41)年
だが、芸能界は見た目の華やかさとは裏腹の他人を出し抜き己の欲望のために食うか食われるかの毎日。
戸田が憧れ夢見続けてきた美しい世界とは懸け離れた修羅場のような世界だった。
芸能界に魅力を感じなくなった戸田は神戸へ帰ることを決心した
次の目標を模索している時、母から協和株式会社を紹介される。
社長の平岡に気に入られた戸田は自動手洗器販売の営業活動をする事になった。
1972(昭和47)年
協和株式会社の代表取締役社長に就任
1973(昭和48)年
コンポスト技術の研究開発資金の投資先情報を調べる為、エクセル株式会社を訪問した際の事だった。
次の瞬間
小さなファインダーの向こうに広がる異世界が戸田の人生を まったく変えてしまうことになる
微生物が織りなす幻想的で摩訶不思議な世界に戸田はすっかり魅了されてしまった。
まだ微生物の分類すら確立されていないこの時代だったが、興味を持つと考えずにのめり込み大胆な行動に出る戸田はその場で同社に技術研究開発資金として貸付を決めた。
1974(昭和49)年
協和株式会社の一部門として正式に「微生物総合技術研究所」を設立した。
その後、戸田は2年がかりで光合成細菌を主体に第1号商品である魚の健康食品「PSB」を完成させた。これが戸田の想定を遥かに超える効能を発揮した。
1992(平成4)年
真珠養殖で有名な三重県の的矢湾の浄化に成功。
その結果、業務が止まるほどにメディアや関連企業からの問い合わせが殺到し、農水省や建設省からも注目され霞ヶ浦の浄化事業も決定した。
1994(平成6)年
戸田は微生物酵素(光合成細菌RAP99)を主体とした健康食品の研究開発に没頭した。試作の失敗が重なっても戸田に疲労感はなかった。
なぜなら戸田は自ら試飲してその効力を計っていたからだ。
そしてついに微生物酵素(光合成細菌RAP99)の試作品の完成に漕ぎ着けた。
1995(平成7)年
これから全て順調に進みだす。
そう思っていた矢先…
阪神淡路大震災により神戸本社、研究所が全焼してしまう。
土質、水質の浄化に関する化学的データも全て消失したため、浄化事業ができない状態に陥る。
戸田はあの日 偶然 自宅に「光合成細菌BP0899株」の種菌体を持ち帰った奇跡に感謝した。
ほとんど無一文になってしまった戸田に自前での「微生物酵素」完成は望めない…
戸田は京都大学から縁のある工藤教授に解析や細菌の写真撮影を依頼した。
翌日、工藤教授は戸田の自宅を訪ね、光合成細菌RAP99についての解析結果を説明した。
工藤教授より太鼓判を押された戸田は自信を持って微生物酵素(光合成細菌RAP99)の製造を目指した。
その後、様々な縁に助けられ、微生物酵素の研究は進む。
2002(平成14)年
試作に協力してくれた、ほぼすべての人が明るい感想を述べてくれた事もあり、微生物酵素の製造販売を開始した。
その後、「微生物酵素」の研究開発をK大学医学部と佐久間教授の協力を得ながら行えるようになった。
ユックリと信用を得ていく中、噂が噂を呼び、たくさんの人が「微生物酵素」を求めて戸田を訪れ、多くの人が明るい感想を述べてくれた。
そして、2020(令和2)年
「微生物酵素」を世に広める為、戸田は更なる決意を固める。
終
戸田順博が長年の微生物研究の中で、その有用性を見出した『光合成細菌BP0899株』は、正式名称を「Rhodobacter azotoformans BP0899 株(通称 光合成細菌RAP99)」と言います。
約35 億年前の酸素がない原始地球の時代から地球を支え続けてきた数ある光合成細菌の中から、私たちは光合成細菌RAP99 を選び、半世紀以上にわたり試験研究を行なってきました。これからも「生命と自然の浄化」を使命として、皆様の健康を守るお手伝いをしていきます。